自分史~亡父の思い出と私の祭り


ワールド・カップ・サッカー/ドイツチーム同行記

 

  7月1日(月)、ドイツチームを羽田に見送り帰宅した翌2日の早朝、ブラジル在住の高校・大学バレーボール部の後輩から電話で起こされました。ブラジルが予想通りワールドカップ・サッカーで5回目の優勝を達成した喜びと、私がドイツチームに同行していたのを知っており、慰めの挨拶を兼ねたものでした。彼は南米予選開始の頃から、当時不調だったブラジルにもかかわらず、その勝利を確信しており、私は今年ドイツチームの欧州予選通過の状況から、日本での予選リーグ突破は可能だが、決勝トーナメント1・2回戦で韓国から帰国ではないかと予想していました。まさか準決勝を勝ちあがって日本に戻り、ブラジルと戦うなどとは想像していませんでした。結果は皆さんご承知の通り、ブラジル2:0ドイツでGKオリバー・カーンの執念実らず、史上初5回目の優勝がブラジル・チームの頭上に輝きました。ドイツチームが負けたとはいえ、今後四半世紀中には(生きているうちに)2度目の日本開催は不可能と思われるワールドカップ・サッカーに、今回、何らかの形で参画したいと願っていた私にとっては、最高の形で「私の祭り」を祝う事が出来ました。

  実は前々から昨年11月の定年退職後は、必ずワールド・カップの通訳ボランテア(独・英)をやると宣言しており、横浜市とJAWOC(2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会)埼玉支部でボランテァ登録をしておりました。しかし単なるボランテァではなく、もっとドイツチームに近い所でお手伝いをしたいとキャンプ地宮崎やJAWOCの関係者など心当たりをあたっていたところ、粘りが実ってドイツ・チームのセキュリテイ・リエゾン・オフィサー(警備担当)の通訳として、最後のチャンスを掴む事が出来ました。チーム・リエゾン(連絡&世話係)はドイツ語に堪能なチーフと女性アシスタントおよびメデイア担当の計3名のマネージャーに、警備担当2名とその通訳(筆者)の総勢6名で構成され、ドイツチームに同行し、諸々お世話をする事になっていました。

  1979年春、会社のドイツ販売会社立ち上げのため、小学1年生を頭に3人の息子を引き連れてのドイツ・フランクフルト駐在スタートでしたが、高校・大学での第2外国語・ドイツ語7年間の授業経験はメンタルな面で楽にしてくれました。そして学校・私生活・環境・仕事といろいろ家族共々世話になった7年間のドイツ生活、家族全員で好きになったドイツ、3人の息子達がドイツの友達を沢山作った現地校や地域サッカークラブ、会社がスポンサーだった関係でエクストラで楽しませてもらったワールドカップ・サッカーなどなど、まとめて"ドイツに返礼"したいと考えていたところに、うまい具合に定年退職のタイミングが合って、時間も出来、就職活動をせずにチャンスをうかがっていたところでした。

  25年前に亡くなった父は、幼い頃から蹴球に親しみ、師範附属・旧制高校・早稲田大学と続け、2回にわたる大陸への出征も無事に乗り越え,その合間に実業団(東芝)でチームを創り・育て40歳頃まで監督を兼ねてプレーをしておりました。小学校に入った以降の私と3才下の弟を試合や練習日に連れだし、合間に選手たちにボールの蹴り方から教えられ、私はいずれサッカーの選手になるんだと夢見ておりました。公立中学へ入学して楽しみにしていたサッカー部を探しましたが、残念ながら見当たらず、ガッカリして帰宅した事を憶えております。今ほどサッカーが盛んな時代ではなく、2年生の夏休みが始まる頃まで何も部活に参加しなかった私がバレー部の先生に誘われ、なんとなく始めたバレーボールにはまり込み、学院・大学・実業団と球種は違いますが、同じような道を辿ったのは、尊敬していた父の姿を追い駆けていたのかもしれません。私のバレーの試合も良く見に来てくれた父が1976年4月に急逝し、かれの生れ変わりのように翌年1月に誕生した3男が、ドイツで始めたサッカーをズ-ッと続け、大学院時代に学生チームのトップ・コーチを経験し、今、大学職員としての勤めの中で附属中学校サッカー部の指導者になっている事や、ワールドカップ・サッカーに縁の下の力持ち的活動をしていたことと考え合わせると感無量です。その3男が日本に帰ってから参加した地元のサッカークラブの会長を私が現在勤めているのも何かの縁でしょう。

  父の時代には思いもつかなかったワールドカップ・サッカーが日本で開催されたこと。生きていれば90歳近い父が元気ならば絶対試合場に身体を運んだであろうワールドカップ・サッカー。その子供・孫が何らかの形で、その祭典に関わっていた事。これらの大きな因縁の輪の中心に「父の思い出」と「ドイツチーム」があり、その応援をしたいという願いが実現しました。

  さて羽田空港集合 5月20日(月)に先遣隊と合流、23日(木)には選手団もルフト・ハンザ機・宮崎空港・臨時着陸で合流。いよいよ念願の「ドイツへの返礼」をと張り切ってスタートしました。

  お会いした宮崎県警の警部・警部補さんたちも大変温厚・冷静な人柄の方達で、強面の警察官ではなく一安心。ドイツの上級警部も空手歴30年(欧州選手権3位になったこともある?)の猛者ですが、カタ仮名やひら仮名は大体読めるという願ってもないパートナーでした。本来は BKA(Bundes Kriminal Amt=日本の警察庁)所属で首相の特別護衛官が役目であり、沖縄サミットにも来日したとの事。彼の雰囲気が漫画の「ゴルゴ13」風でしたので、警備リエゾンの宮崎県警のお2人は空港到着時に一目で「彼のはずだ」と認識出来たとのことでした。 我々4人は、お互いに相手に恵まれて一安心と言う感じですぐに溶け込み、良いチームができたと確信出来ました。ところでドイツ人パートナーからの依頼で買い物に同行案内した先は、判子屋さん(ドイツ人の名前を意味のある漢字に直し、刻印した特注印鑑・例えばKLEINさん⇒蔵院)と武具屋さん(名前・片仮名と道場名・漢字を刺繍した特注の帯)と呉服屋さん(紋付の羽織と雪駄)等で、やはり変った人でした。自らも「ヘンナガイジンデス」と云っていたほどです。

  さて役目としてはドイツ協会の要望を聞きながら、選手団として団体で行動する時の「警護」と滞在先でのFANやMEDIAを含めた全体の交通整理のチェックがメインであった。従ってキャンプ中は選手たちの唯一の団体行動は練習であり練習場とホテル間、公式試合が始まれば、試合場と練習場とホテル間の導線警備と練習場での警護と所轄の担当警察との連携がメインとなり、選手の移動時はバスの後ろにぴったりついて移動。交叉点通過する時にバスと離れやしないかとチョッピリやきもきする事もありました。宿泊ホテルの内外警備は地元警察とホテルが契約したガードマンが入り口や選手たちの宿泊階の24時間チェックをしており、問題あった場合には出張ると云う取り決めでありました。

  さてキャンプ中のドイツチームで感心したのは、時差ぼけを早急に解消するためもあるのか到着した当日から、多い日で午前・午後の2回行われた練習に対する勤勉な態度だった。特に目を引いたのはカーン主将始めとするゴールキーパー陣(3人)で、彼らは集中練習や特別練習も含め、他の選手達の倍以上の練習をこなしていました。練習公開は 対PRESSのみであり、一般のFANには、地元高校選抜との親善試合だけ公開されました。PRESS(MEDIA)に対しては記者会見を律儀にやってはいましたが、公開練習は時間制限付きで、怪我人情報や戦略漏れを心配していたように感じました。

  選手団が宮崎入りする23日の明け方まで降っていた雨が、着陸前に突然止み、それからは天気男の集団が来た如く快晴続きで、1次予選の札幌・鹿島での試合当日も、また台風襲来していた静岡でさえ試合時間には雨が止むなど、彼らには天候・気温(試合は全て夜)ともに願ってもないような展開でした。しかしやはり湿気の多さにはうんざりしていたようで、帯同医師のアドバイスによる練習中の休憩の取り方や水分補給には、大分神経を使っていたように感じました。

  練習のない時には、選手たちは結構まじめで、筋力トレ-ニングに行ったりテニス・ゴルフ・POOL でRELAX したり、休養・読書・INTERNETなどで過ごしていた。 総じて読書を楽しんでいたように感じました。キャプテンのオリバー・カーン選手は 経済に興味があり、特に株式投資の専門家でもあるとの事。と同時にゴルフにも大変熱心で、ホテルのゴルフショップを覗いたり、練習の合間にGKコーチとラウンドしていたようです。DFのラメロー選手や ハマン選手なども、移動の飛行機の中や食堂にかなり分厚い本を持ちこんでいました。ただし、20代前半の若い選手たちは、まだまだ遊び心が旺盛で、部屋のドアに男のNUDE写真を張り、顔に仲間の写真を張りつけ、茶目っ気溢れるコメントをいれるなど、それなりに若さを発散させていたように感じました。

  さて 予選リーグ第1戦は、6月1日(日) 対 サウジアラビア戦。5月31日(土)にチャーター便で宮崎から札幌に飛び、市内及び試合会場から40分ほどのゴルフ場の真中にあるホテルに宿泊。朝6時頃からゴルフ・スタートの案内がスピーカーでされると言う予想外の出来事があり、ドイツ人はぶつぶつ言っていましたが、契約外の事なのでそれ以上のクレームには発展しませんでした。 その反面 Media関係者の場合は、契約によりホテルゲストでも宿替えをしてもらうほど厳しくチェックされており、さすが契約社会。試合はご存知の様に、初戦のサウジアラビアにはFW クローゼ選手のハット・トリックを含む8得点で完勝し、上機嫌で宮崎に戻りました。若手でハンサムな彼は、一夜にしてカーン主将に次いで人気者となりました。

  6月5日(水)が茨城県鹿島での第2戦。試合はアイルランドとロスタイムでの失点により1:1の引き分け。予選通過が第3戦のカメルーン戦次第となり、お陰で試合に出ていない控えの選手の出番が更に少なくなった様に思えました。特にGKカーン選手の控え2人は 、彼が怪我で出場不能にならない限り、出場のチャンスは予選通過決定後のカメルーン戦しか無かったと思われます。引分けに終わった為に彼等はトウトウ1度も本戦に出場できずに終わりました。この試合の後、髪の毛を「モヒカンスタイル」で黒・赤・黄と国旗と同じ色に染め分けていたレギュラーのDFツイーゲ選手が、突然、丸坊主になりました。験(げん)を担いだのか・控え選手に申訳ないとした事なのか、その理由は聞けませんでしたが、今度チャンスがあったら是非尋ねてみたい。ドイツにも「験(げん)かつぎ」はあるのかな?

  6月11日(火)の静岡でのカメルーン戦は、予選の日本ラウンド最後の試合であり、おりしも台風襲来の真っ最中でした。暴風雨のなかでの試合かと案じていたが、本当に不思議な事に、試合時間になると全ておさまり、気温もしのぎやすくなりました。この試合に勝てば決勝トーナメント進出で、韓国の済州島へ移動。負けた場合は予選落となり、彼等全員、翌日朝8時半には名古屋空港からドイツ帰国の手配がされていた。小生にとっては 云ってみれば、カメルーンに負ければ、「さよなら」であり、勝ったとしても決勝戦まで勝ち残るのは難しい!もう2度と彼らには会えないだろう。ドイツへの返礼もここまでと覚悟を決めました。試合は守りに徹し,仕掛たカウンターアタックが得点に結びつき2:0でカメルーンに勝ち、決勝リーグ進出。ホテルに戻り、予選突破の打ち上げ会食となったが、日独警備担当の3人の希望で、SECURITYチームだけでの打ち上げをホテルの私の部屋でやったため、残念ながら選手達との充分な交流が出来ず、私は不完全燃焼でした。

  翌12日(水)名古屋空港でチームを韓国へ見送った後は、宮崎県警の2人は宮崎へ帰任。私は一人で東京へ。もう2度と会えないと思っており、連絡先のメール・アドレスなどを交換し、東西に別れました。

  宮崎県警のお2人は、外国人との付き合いは初めてということで、時間が経つにつれ、気疲れてしまった様子だったが、一先ず無事に役目を果たし、肩から緊張感が抜けていました。相手パートナーは、ドイツ人としては風変わりな人間で,30年間も空手をやっている、いまも友人と道場を一緒にやっていると言う事で、空手のみならず日本の武道に大きな興味を持っており、宮崎県警の人とも武道の練習方法や道具など情報集めに仲良く交流していました。しかしお2人にとって朝は日本食を一緒に食べても、やはり昼間「ドイツ人」に疲れ、昼・夜の食事も「ドイツ飯」となれば、一気にドイツへ飛んでいった感じからか、この時に仕事を果たした充実感ともども我が家へ帰れる安堵感でホッとされた様でした。我々は大変良いチームワークで仕事が出来たと思っており、宮崎の人達もドイツの人もそのように云っておりました。

  宮崎キャンプ中には、いつも沢山の地元の人達やサッカーFANが応援に駆けつけ、激励したり,ご贔屓選手にプレゼントしたり、サインを貰ったりしていましがたが、その中に身体の不自由な娘さんが母親に連れられ車椅子で毎日の様に激励にきておりました。FWヤンカー選手などはいち早くユニフォームをプレゼントしたり、声を掛けてあげたり、他の選手たちも優しい気配りをするなど心温まるものを感じました。蛇足ですが小生とヤンカー選手との交流は、裸の付き合い、つまりホテルの大浴場での出合いから始まり、見上げるほどの大男(193cm)と楽しい交流が出来ました。彼は近寄りがたい雰囲気を持つカーン主将とは対照的に、明るく気さくな人柄で選手たちの潤滑油的存在だと私は感じました。

  さて、韓国での決勝トーナメント!ドイツチームに「気」を送って応援していましたが、まさかの決勝進出。 決勝戦に戻ってきたドイツチームを羽田に迎えたのが、6月28日(金)、試合の2日前でした。相手はワールドカップ・サッカー唯一4回優勝のブラジル。 正直なところドイツ(優勝3回)の得点能力がバラック選手の欠場もあって下がっているし、相手はロナウジーニョが戻ってきて万全の攻撃態勢の組めるブラジルですから、解説者の予想通り「勝ち」は難しいかなとは思ってはいました。

  横浜駅前のホテルに着いたら、外も内も鈴生りのヒト・ひと・人、これには選手だけではなく我々警備スタッフもびっくり! 早速ホテル側と打ち合わせに入り、導線の確保と人の排除をやる事になりましたが、ロビーが狭く3階まで吹き抜けになっているので、選手たちの出入りの際に今まで以上に注意を払う必要がありました。 しかも頼りのドイツ人パートナーは、チームの決勝戦出場が決まる以前にドイツのラオ大統領や、小泉首相がカナダから政府特別機で同行してきたシュレーダー首相、それに彼の直属の上司・シーラ内務大臣等の、来日から決勝戦当日および離日までの警備検討をドイツ大使館・警察庁とするため、選手団(DFB・ドイツサッカー協会)とは離れてしまっていました。そのため我々はパートナー無しで、協会の人間と話さなければならなくなり、協会側からは「ナンで彼は我々に一言も言わずいなくなったのか?」と言われてしまう始末。しかし「Das ist Ihr Baby,nicht unseres! Aber wir sitzen beide im selben Boot! Also loesen wir das Problem als unser gemeisames ! 〔それは貴方のベイビー(ドイツ側の問題)で,我々のではありませんヨ。 しかし我々は、同じボートに乗っているんです!!共通の問題として解決しましょう!〕とねばり、大使館に居る彼にも携帯電話で交代要員の派遣を要請したが、彼からは一言。「これが私の本来の役目です。シカタナイデス!」。幸いにチームの離日まで大した問題もおこらず、無事努めを果たす事が出来ました。

  話しは変りますが、チームの用具係が大勢集まった横浜のFANに、練習や試合へ行く時の BUSの窓からT‐シャツや練習着・GKのグローブ等を知らん顔して放り投げていました。拾った人は大喜びだっただろう。縁の下で支えているメンバーまでがサービス精神を発揮し、同時にちょっぴり優越感を感じての行動。小生に気付かれてテレ笑いと同時にうれしそうな顔をしていました。 逆に新聞記事などによると、決勝戦の当日 横浜国際競技場・ロッカールームにはブラジルチームが派手にサインやメッセージを書き残していったそうだが、ドイツチームにはなかったそうです。これも几帳面なドイツ人らしい話です。

    警備担当の我々4人(最後は日本側のみ3人)は常に試合終了5分前には、選手団のBUSに戻り警備にはいりますので、アイルランド戦ロスタイムの同点シュートや決勝戦のセレモニーは、ホテルへ戻ってからのテレビでしか見ておりません! アイルランド戦では、バスに戻る途中で「ワーー」というどよめきでシュートがどちらの点になったかが分かり、決勝戦では空から舞い降りた鶴の折り紙でセレモニーの進行を感じたものでした。

  決勝戦はご承知の通り、2:0でドイツの負け、オリバー・カーン主将の怪我が無くても一寸無理だったかなと納得の行く敗戦と思いました。ブラジルが史上初の5回目の優勝。でもさすがドイツです。残念ながら4回目の優勝は出来無かったが、史上初の4回目の準優勝! その夜の準優勝祝賀会は首相・内相を招き、ドイツから急遽人気楽団を呼び寄せ、選手団の頑張りを褒め称え、内外の関係者への感謝と慰労、そして2006年ワールドカップ・ドイツ開催の成功を祈念して、250名ほどの招待客・選手の家族らと我々を含めた裏方さんたち関係者と夜の12時半頃から楽しく盛大に行われました。やはり懐かしいドイツのMUSICにBIER・WEIN、それに帯同してきているドイツ人シェフの工夫を凝らした料理に、約6週間にわたる「祭り」の打ち上げが夜の更けるまで続けられました。私も選手たちとの最後の交流を、3時過ぎまで十分楽しむ事が出来ました。

  翌7月1日(月)早朝のホテルロビーで、帰国前に横浜市がカーン選手の手型を30cm四方ぐらいのセメント・木枠に取る手配をしていました。彼も快く左手から始めましたが、「右手は怪我をしているので」と彼は丁重に断り、市側の了解を取った上で再度 左手の手型を残して帰国しました。この左両手の手型は世界にひとつ!?( 横浜市では銅製の左手型一個を製作。完成後、ブラジルの主将カフー選手の足型と共に一般公開されたようです。)

  彼等の凱旋帰国時のシーン(フランクフルト・ローマ広場)がテレビで放送されている時、主将・GKカーン選手が2002ワールドカップのMVPに選ばれたというニュースがながれ、"然もありなん"と大きな拍手を送りました。 試合終了後、全力を出し切りゴールポストにしゃがみこんでいた彼の姿が非常に印象的でした。

  私の定年退職後に予定をしていた最大の「私の祭り」を、決勝戦まで楽しませてくれたドイツチームに乾杯!!
  25年前に亡くなったサッカーOBであった父が生きていればなんと云っただろうか!今年は父の27回忌、良い供養となった。
  改めてサッカーは地球でNo.1のスポーツ競技と感じました。
  今度は 2006年ドイツでワールドカップ・サッカーを!!